ほのぼの

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  父の願い


どの家族でも、或いは何処の親戚でも、
嫌がおうにも慶弔事は必ず訪れます。
1月10日、我が家の家庭からも逝くことになりました。

心筋梗塞のため、父が72才の生涯を閉じたのです。
若い頃はよく夫婦喧嘩が絶えなかったものの、
ここ10数年は仲睦まじく旅行に出かけたり、
二人でかけ合い漫才をしていたものでした。
いつも元気に振る舞い、周囲に笑顔を絶やさない父を想うと、
今回の死は全くの突然の出来事でした。

葬式関係の準備で、通夜、告別式、火葬、そして精進落としの手筈を整えました。
当日の通夜は300名を越える親戚、知人、友人が焼香に集まり、
父の付き合いの広さ、情け深さを改めて思い知った日となりました。
何かあれば必ず相談に乗り、相手を気遣い、誰とでもすぐに打ち解ける父は、
いい意味で良き人生を送ったのだと思います。
全くの突然の死のため、病院に伏していたわけではないので、
特段家族には何ら迷惑をかけていません。
また1ケ月程前には、ごくごく親しい親戚と旅行に出掛けているし、
前日には小学校の同窓生と懇親会を行っています。
生前に、まして前日に一通りの挨拶回りをした後に逝くなんて、
何とも手筈が良すぎるというものです。

でも父にはまだまだ人生を謳歌してもらいたかったと思うと、
どうしようもない悔しさや、憤りを感じる時があります。
既に時は過ぎ去り、青い記憶だけ残された私達には、
この後の締めくくる長い夜は淵に落とされるほどに果てしなく、
光明の見えぬ底を這うが如く物悲しくなりました。

そんな晩を前にして、通夜の盛大さとは裏腹に、
その夜は淋しいほどの人だけとなりました。
私達親族の他に親戚の多くが残るはずだったのが、
近隣のホテルに引き上げて、
数人足らずとなってしまったのです。

ただ一人、親戚で残ったのは父の弟の妻、つまり叔母さんにあたる人でした。
父の兄弟は10名近くいますが、その弟とは特に仲が良かったようです。
気心が知れて、いい飲み仲間だったとも言われています。
と言っても、二人とも好きだけれども、酒に飲まれる達のため、
周囲に迷惑をかけるのも多かったのです。
ですから叔母さんも大変だったことと思います。

しかしその弟は若いうちに他界し、既に20年以上が経過していました。
そう考えると、叔母さんは既に血の繋がりが何もなく、
親戚の仲でも縁遠くなりがちです。
でも通夜の番から告別式まで、
私達夫婦と共に、寝ずに線香の番をしてくれた唯一の人となりました。
私達は仮通夜から二晩続けて寝ずに見守っていたので、
叔母さんが一緒に付き沿ってくれたのは、本当に心強かったです。

眠い目をこすりながら、いろいろと話を聞いてみると、
叔母さんの夫(父の弟)が亡くなった晩や通夜は、
やはり親戚みんな、帰り自宅を急いでいたようです。
でも、そんな中父は、
「亡くなった晩なんだから、最後までいてやる」
と頑と言い張って、朝まで弟の前から離れませんでした。
聞くところによると、涙がこぼれても気にせず、
朝方まで、棺の中の弟と酒を酌み交わしたようです。

叔母さんにとっては、帰宅の途についた10数人の親戚以上に、
父の何時間にもわたった“弔辞”が、胸にしみたんだと思います。
それが大変心強く頼もしく、心から有り難かったのでしょう。


その恩返しという訳でもないのでしょうが、
父の通夜の晩、叔母さんは寝ずの番をして、
ずっと線香を絶やさずに見守ってくれました。

今時は、僅か1年未満のことでも薄情が状態化しつつあるときに、
ちょうど自分の夫に対して接してくれた温情を返すが如く、
今度は叔母さんが、父のために30数余年の歳月を遡って、
棺に寄り添って朝方まで“弔辞”を謳ってくれたのでした。
お陰で私達夫婦も、1時間余りでしたが、
仮眠を取ってから告別式にいどむことができました。

今回の葬儀で、今まで知ることのなかった、
ずっと身近な親戚を得ることが出来ました。
その後叔母さんとは、旧来の友達のような仲になったのはいうまでもありません。
これも今更考えてみれば、父が最も得意とし、
温めていた人との付き合いから、生まれたものと思っています。
私達に残した遺産であり、いい土産なのでしょう。

現在祖父・祖母が眠る墓に、父が植えたシキミが既に2メートルを超えて、
今度は主を迎えています。
墓の四方には父が世話をした人が何人も囲っているので、
この後もまたみんなとワイワイやるのでしょう。

※叔母さんを悼んで改めて綴りました。