引退したパン屋さん。猫好きが高じて今は幸せに生活しています。
ある商店街のパン屋さんのお話です。
そのパン屋というのは、何処にでもある店と殆ど変わらないのですが、
唯一異なるのは、このパン屋の夫婦が沢山の猫を飼っているという点でした。
最初は1匹の野良猫を飼い始めたのですが、そのうちこの夫婦の話を聞きつけて、
このパン屋の前に勝手に子猫を置いていく人が増えたそうです。
でも二人は、置き捨てられた猫を黙って見過ごすわけにはいきません。
猫といえど、生命のあるもの。
可哀想だし、憐れんで一晩だけでも餌をと思っているうちに、
ついに何十匹となったようです。
裏の倉庫で飼っている数は凡そ20匹。
店が開いているときは決して外に出さず、店じまいした午後8時頃から、
自分達も一緒に自由に散歩するのを日課としてます。
その他に野良猫が10匹程度。
店の前に段ボールを引き、そこに餌を蒔いてあげると、
何処からともなく10数匹が集まってくるのです。
何処でも動物好きな人がいれば、その逆も必ずいるものです。
その商店街の八百屋の主人は、パン屋周辺に野良猫がいるのを嫌い、
何度も保健所に連絡する人の一人です。
保健所の所員は、パン屋の衛生管理が行き届いているのを知っているため、
特に夫婦には一言二言話をするだけで、むげな行為はせずに、
何もなかったように帰っていきます。
でも八百屋の主人は、それも気に入らないことの一つだったようです。
ある時、凡そ考えないような残虐な行為に及んだことがあります。
一つは餌に毒を忍ばせて与えたことであり、
もう一つは自家用車でひいたということです。
毒を食べた猫は二晩もがき苦しみましたが、
夫婦の必死の看病で、命辛々助かりました。
また車で曳かれた方も、後ろ足切断という結果になりましたが、
それでも今では元気で飛び回っています。
逆に八百屋の主人は、それ以来悪いことばかり起き、
娘は交通事故に遭い、本人は片目を喪失。
一人では、外に出歩けないということです。
全部合わせると30匹を越えるのだから、様々なことが起こります。
ある日のこと。
倉庫で飼われている中の一匹の「め」(目が見えないので、そうつけた)が、
朝早くから人恋しいように鳴いています。
その日も午前3時からパンを焼いていたのですが、
土曜日のため、いつもより多い作業が入っています。
よくよく鳴いているので、抱いてあげたいのだけれど、余裕がありませんでした。
「後でゆっくり抱っこしてあげるからな」
パン屋の主人は、そう言って仕事に向かいました。
仕事が一息ついた午前8時頃、猫たちに声を掛けてあげようと思い、
倉庫に向かいました。
すると先ほどの「め」は既に息絶えて、冷たくなっていたのです。
「め!おまえ…」
あとの言葉がありません。
自分の死期を感じたのでしょうか。
或いは死んでいく淋しさ、恐さで必死に鳴いていたのでしょう。
それが分かった主人は無念の気持ちで一杯でした。
「僅か1分でもいいから、抱いてあげればよかった…」
死んだ後でしたが、いつまでもいつまでも抱いてあげました。
即日火葬場で焼いてもらい、戒名には漢字で「目」と記しました。
天国では自分の目で動けるように、という配慮のようです。
いつもパン好き、動物好きの人に支えられ励まされ、店はいつも繁盛しています。
相変わらず捨て猫があれば、またもう一匹と増えています。
さてそのパン屋夫婦も50歳を越え、十分に働いたのでしょう。
20年近くにわたり実直に毎日毎日働いてきた結果、
アパートを建て、その収入が見込めるようになり、パン屋は畳んで終わりにしました。
そのかわり、
「30数匹の餌代って、馬鹿にならないねえ。あっはっはっは」
そんなことを言って、無邪気に笑っているところを見ると、
今でも猫達の面倒を見ながら、仲良く暮らしているようです。
ちなみに、そのアパートは「ペット持ち込み可」だそうです。
また常連の人達は、そのアパートを“猫御殿”と呼んでいます。